テキスト ボックス: 『インタラクティブ・アート』レポート課題   10746048 沼田 友
「せがれいじり」に見るアートとゲームの可能性 2009年6月9日
テキスト ボックス: @コンピュータ・ゲームとメディア・アートの関連について私の年少期において最もインパクトのあった作品であり、また同時に現在に至るまでリスペクトして止まないゲームがある。

 『せがれいじり』は199963日、プレイステーション用ソフトとしてエニックスから発売された。プレイヤーは矢印型の主人公である「せがれ」を操作し、「セケン」と呼ばれる、箱がいくつも重なり合ったような空間を駆け回る。「セケン」のあちこちに点在する「オキモノ」と呼ばれるものに近づいて○ボタンを押すと(=「オカカワリ」する)、以下のような画面が出現する。

 

 

 

 

 


 単語を選び最後まで作文すると、完成した文章に合わせたシュールな映像が流される。3DCG、手描きアニメーション、紙芝居、実写コラージュ……、その種類は多岐に渡るが、そのいずれもが非常におバカな、脱力するような内容になっている。またその作文の内容によって、新たな「オキモノ」がセケンに出現することもある。それを繰り返すことで、最終的には60を超える全ての「オキモノ」を出現させることでゲームクリアになる……という内容だ。プレイヤーが作文出来る組み合わせは数多くあるが、そのすべての内容にちゃんとムービーが用意されている。そしてこの「作文」という特異なシステムは、合計700を超えるというムービーをプレイヤーに能動的に見せるという仕組みであるだけに留まらない。

 

 

 

 


ゲーム中で、プレイヤーは自ら、普段使っている言葉ではまったくあり得ない組み合わせの内容を作文しなければならない。そもそも言葉とは、人間が発明した社会を社会として成立させるための道具であり、あるいはコミュニケーションの叡智であり、そこには言葉を円滑に運用させるための厳密な規則、ルールが存在する。ところがプレイヤーは「せがれいじり」において、そのルールを意図的にくずして単語を組み合わせなければならなくなる。一見見覚えのある言葉がシャッフルされ、我々の社会において意味が通用しなくなるとき、本来ならば人間対人間の社会的コミュニケーションは破壊されてしまう。ところがこのゲームでは、そのすべての「破壊された言葉」に映像が、つまり「意味」が用意されているのだ。岩井俊雄らも参加したテレビ番組『ウゴウゴルーガ』の代表的存在であり、この作品の原案・デザイン・ディレクターを担当しているCG作家の秋元きつねは、現代人が作り上げた「言葉で説明できること(=論理)」を重視する傾向を批判した上で、ゲームの意図をこう説明している。

 <『せがれいじり』はプレイヤー自ら「概念」「通念」を破壊していく(中略)それは子供の持つ暴力性で、何も知らない子供が意味も分からず大人の単語を使ってひやひやさせたり周りを気にせずむちゃくちゃすることに似て、(この暴力性は)イコール幼児性でもあり、「せがれ」はこの「暴力」をもって見る側の母性(※秋元は「客観的、統計的思考で主観がないベクトル」を「父性」と呼び批判しており、これはその対義語である)を引き出す役割を持っている(「秋元きつね本」P74)>

 このように、秋元はこの作品のゲームデザインのキーワードとして「幼児性」をたびたび挙げている。主人公であるせがれの特異なキャラクターモデルも、「子供の持つ好奇心」をそのままあらわしたものだ。<矢印は単なるベクトル。一方向しか示さないのは子供同様、好奇心の向くまままっすぐ進むだけ。(中略)黄色は“注意”。せがれの勢いは、時に論理や関係を破壊して新しい道を切り開く、非常にポジティブな破壊を繰り返す(「秋元きつね本」P25)>

 個人作家が制作したムービーを単に受動的に見せるだけでなく、「子供」の持つ衝動や既成概念にとらわれない柔軟さ、そして好奇心をそのままゲームデザインに反映させたそれは、人間が持つ、そしてゲームが持つ互いの根源的な関係性を浮かび上がらせている。このゲームには、敵を倒したり、レベルアップするという類の達成感は用意されていない。にも関わらずプレイヤーを突き動かしているのは、ただ単純に「次は何が出て来るんだろう」という好奇心なのだ。それだけのためにチューンナップされている『せがれいじり』は、衝動や勢いだけでコントローラーを突き動かすプレイヤーと、カーソルである「せがれ」を自然に一体化させていく。これらもすべて、秋元の言う<観る側の素養・知識・感覚にゆだねるやり方。ずるいといえばずるいが、これがアート本来の、作品とオーディエンスのコミュニケーションだし、それこそが自由と考えている(「秋元きつね本」P74)>という哲学を(確信的に)反映させたものだ。あらかじめ作られたレールの上にプレイヤーを乗せず、観客の感覚や本能で自由に堀り進めさせることで、作家とのコミュニケーションを試みる――。『せがれいじり』は、紛れもない(そして挑戦的な)インタラクティブ・アートなのである。

 『せがれいじり』は、個人作家が制作したムービーの再生機であると同時に、それをゲームデザインに自然に組み込みながらも、「ただ先が見たい」「ただ動かしたい」という、なにかに触れるときに人間が感じる最も根源的なゲームとのコミュニケーションを成立させている。さらに特筆すべきなのは、この作品が単にカルト的人気を獲得しただけでなく、当時ちゃんと世間に受け入れられて、最終的には17万本を超える大ヒットを記録したということなのだ。これほど作家性の強い作品がここまで売れたということは、メディア・アート史における事件ではないだろうか。『せがれいじり』は現在においてもなお、人間が持つ「好奇心」という名の幼児性の可能性、そして個人作家と「ゲームという媒体」を結ぶ、もうひとつの形を提示し続けているのだ。