See you, soon




 抜けるような秋空だ。
 屋上に干された無数の白いシーツが風で静かに揺れている。木枯らしが俺の耳の側を通りすぎた。そのまま、眼下に広がる穏やかな町並みを眺める。風上からかすかに、電車が踏み切りを通り過ぎる音が聴こえていた。
 普段は風に吹き散らされるだけの、殺風景な市民病院の屋上。フェンスに寄りかかったまま、俺は町並みから目を逸らし、目を閉じた。どれぐらい経ったのだろう。夕方、もうすぐ日が沈もうとしていた。



 ぎいっ、と音がして、ペントハウスの扉がゆっくりと開く。ひとりの子供がドアノブを体全体で押しながら出てきた。子供は――、見た目だけで言うならば、まだ本当に幼い。ただ、その子にはまだ、目が無かった。のっぺらぼうの顔をきょろきょろとさせ、子供は俺を"見つける"と、ぱたぱたとコンクリートの上を走って駆け寄った。子供は、干されているどのシーツよりも白い服を着ている。俺も白い服を着ていた。足元まで来た子供をゆっくりと見下ろすと、こう声をかけた。
「お母さんの様子、どうだった?」
 子供は少しだけ、うーん、と考えると、短くこう言った。
『苦しそう、だった。』
「お父さんも側にいた?」
『居たよ。ずっとお母さんの手をさすっていたよ。がんばれ、がんばれ、って。』
「……。」
 何かが心の中で疼くような気がして、俺は少しだけ黙り込んでしまう。忘れないうちに、腕時計をもう一度だけ確認した。
「十五分前だ。」
『僕が生まれるまで?』
「そう。そして、あの人が君のママになる。」
『……うん。』
 子供は、期待に満ちたワクワク感と、ちょっと不安な気持ちが混ざったような顔になる。ほんの少しだけ、地面に視線を落とし、もう一度俺を見上げた。
『僕のなまえ、何でしたっけ?』
「ああ、うん。ちょうど今から確認するから……、いいな?」
 俺はフェンスから背中を上げると、足元に置いておいた鼠色のクリップボードを手に持ちかえながら、子供に目配せした。
『はい。』
「君は1988年10月3日午後4時23分、東京都立川市の中里病院で、泉武志と朋子夫妻の長男として生まれる。名は、翔太。誕生時は3354グラム。五体満足、健康優良児。君のお母さんは一週間で退院する。お父さんの車で新築の家へ行く。ここからそれほど遠くない場所だ。家には猫が一匹……、きっと君を可愛がってくれるでしょう。」
『わー! 猫もいるんだ。』
 子供は、ぱぁっと明るく笑った。その様子を見た俺は、こう声をかけた。
「そうだな、生まれたら、まず何をしたい?」
『えっとね、お母さんとお父さんに、めちゃくちゃ甘えたい! 生まれるときは、力いっぱい泣いて、お母さんたちを安心させたいな。でね、早く大きくなって、学校に行きたい! それで、友達をいっぱい作るんだ。』


 病院の下から時折、自動車が通る音がする。子供のうきうきした声が、屋上の空間にゆるく散らされていく。
『あっ、でも、やっぱり大人になって、やりたい事をいーっぱいやりたいな! お酒を飲んだり、スーツを着たり……。世界中とか旅してみたいし、飛行機も乗ってみたいし……。』
 子供はひとつひとつ指を折りながら、気ままに続ける。
『色んな友達を作りたいな。でね、素敵なお嫁さんをもらうんだ! お金がかかるかもしれないけれど、宇宙とかも行ってみたい……』
「はははっ、すげーなー、夢一杯だな。」
 俺はクリップボードで膝を叩きながら、フェンスの向こう側の町を見る。
 陽はさらに傾きつつあった。鰯雲が、頭上から空の向こうまで広がっている。
「夢一杯だな……。」
 飛行機雲を目で追いながら、吐き出すように、こう言う。
「……ンなに上手くはいかねーよ。」

 風が吹き抜ける。
 干されているシーツが、ばたばたと音を立てた。
 子供の顔が一瞬で曇った。その言葉の真意を探ろうとしている。急に俯いて、地面のあちこちをきょろきょろと見回し始めた。
「君は学校へ行って、いじめられる。誰も味方してくれない。」
『……。』
「何とか大学までは行けるけれど、友達は居ない。もちろん恋人も――。君は孤独に苛まれながら、生まれつきの自分の不器用さを呪うんだ。就職にも失敗して、スーツは衣装棚の中に眠ったまま。定職に就けずに、それで……」
 俺は町の風景から目を逸らし、子供の方をちらっと見た。すぐに目線を戻す。
「そこから先は、俺も知らないな。書いてないし。」
『……その後になったら、もしかしたら、友達も出来るかもしれないですよね?』
 かすれた小さな声で、子供が聞いた。
 少し間をおいて、俺は答えた。
「かもな。」
 フェンスから手を離した俺は、再び腕時計を確認した。
 何気なく言った。
「……あ、本気にした?」
 一瞬の間。子供は、え?と気がつき、きょとんとした表情になった。
「これ、嘘、冗談。本気にするなよ。綺麗に引っ掛かってくれたなあ。」
 子供はしばし呆然としていたが、すぐに緩んだ表情になった。
『何だあ! ひっどいですよー、意地悪じゃないですか。』
「こんなんで騙されてたらなー、大人になってからが大変だぞ。」
『いえいえ、大丈夫です! もう騙されないよ。気をつけます。』
「ははっ、どうだかな」


 俺とこの子の間にも、秋風が通り過ぎる。もうすぐ、時間のようだ。
「たださ、翔太くん。」
『わ、僕の名前だ。何ですか?』
「もしも今、俺が言ってたことが全部本当だったとして……」
 俺は腰を下ろし、子供と同じ目線に座る。まだそこには"ない"、子供の瞳をじっと見つめた。
「それでも、生まれたいと思う?」
子供は、にぱっ、と笑う。
『もちろんです!』
「何でだろう?」
『それは……』



『あの、最後にひとつだけ、いいですか。』
 扉を開けようとした子供は、こう話しかけた。
『お兄さんは、神様なの?』
 俺は、子供の代わりに扉を支えて、病院の中への道をあけてやっている。
 扉の奥へ子供が消えようとする。その一瞬にこう言った。
「俺は神様なんかじゃねーよ。もっと……、君に近いものだ。」
 子供は振り返らなかった。俺の声が聞こえなかったのかもしれない。
 階段を元気に駆け下りる音が響いていた。


 ふう、と、大きく溜め息をついた。役割を終えた俺は、屋上にひとり、どっかりと座り込んだ。
 涙を拭った。
「何が、もちろんです、だ。畜生……。」
 どこまでも続く秋空と、市民病院。
 クリップボードは消えていた。自分の名前が入った紙だけが、手元に残っている。
 背中に生えた大きな翼が、空への扉を示していた。
「ああ、俺も時間のようだ。まったく、神様も酷なもんだぜ。今更俺に反省しろってのか?」
 日が沈むその瞬間まで、生まれ育った街の景色を目に焼き付けながら、刹那、そうか、この時間は、俺は生まれて来て良かったのかどうかを確かめるためにあるのかもしれないな、と思った。











あとがき
 この小説を、某サイトに査読のお願いをした時に、全員から「あの時子供が何と言ったのか書かれていないのは良くない」と言われました。そこに、何も書かれていないことこそが、この作品の主題であり、またそこを好きにイメージして頂けたらな、と思ったりする僕の気持ちでもあります。