老鷲




  空が淡く染まり始める前に眼が覚めた。天井がまだ暗い。少し長く息を吐いてから、頭を枕に擦り付ける。まだ夢から投げ出されたばかりだ。そのまま頭を横に傾ける。窓から見える山の向こう側の空には、少しづつ淡い暖色が混ざりつつあった。晴天だ。

 突然心臓が高鳴る。体調から来た動悸ではない。特に大きな病気をすることも無く、今日まで淡々と生きてきた。母が死に、一人でこの街外れの質素な家に住むようになってから、既に何十年も経っている。一人分の食事、一人分の寝床、一人分の着物、一人分の畑・・・たったこれだけで、暮らしてきた。だが今日だけは特別な日だ。どれだけ皺が増えても、相変わらずこの日は早く眼が覚めてしまう自分が、少し可笑しい。

 まだ少し肌寒い朝。手早く着替えると、朝食の前に道の向こう側の牛舎へと向かう。細い丸太で組み上げた小さく古ぼけた小屋で、老いた牛がゆっくりと呼吸をしながら小さな瞳でこちらを見つめている。こいつとも長い付き合いだ。十年以上畑仕事を共にしている。たった一頭だが、それでも最近は世話が手に追えず、知り合いの倅に手伝いに来てもらうこともあった。ざく、ざくと寝床の藁を取替え、毛並みを整えた。こいつの朝飯は出発前にすることにした。再び道を横切り、次は自分の朝食の用意にかかった。陽が昇り始めていた。



 約束は夜の七時。

 ひととおりの朝の手間を終えると、履物を変えて道へ出た。若い頃から高かった背は、それほど縮まず曲がらずにここまで来ている。ただ歩く速度はずいぶんと落ちた。乾燥した地面の上を静かに歩く。回りはどこまでも畑と荒地だ。馬車が通るから、道幅は広い。不思議とこの時間は人通りが無かった。名の無い小鳥が頭上を素早く飛んでいった。鳥を追いかけるように、見上げる。質量感のある雲が左目の上を漂っていた。

 村に入ると、すぐ入り口にある安い酒屋のバルコニーから、三人の若い男がこちらを向いた。声が飛んでくる。

 「おうい。今日なんだよなぁ、じいさん。」
 「せいぜい張り切って行って来いよ。」
 「楽しすぎて、帰ってこないと困るからなぁ。」
 そう言ってケラケラと笑う。まぁ、これぐらいは慣れているものだ。裁縫屋の前で立ち話をしていた、十歳ほど年下の女たちも気がついて声を大きくした。もう夫の居ない女たちだ。すぐ奥の家に繋がれていた丸い犬が、不思議そうに女たちを見つめていた。鼻から息を吐いて、傍の角を曲がる。少し狭い路地で、陰になっている。頭上には洗濯物が吊るしてあった。陽の角度が直角に近いているようだ。

 再び明るい通りに出、向かい側の角に構えている床屋に入った。かららん、と扉に付いていた鈴が鳴る。いつ嗅いでも不思議と懐かしい、床屋の独特の匂いがした。

 中途半端な広さの部屋の真ん中に"姐さん"が立っている。
 「待ってたよ。」
 どこか楽しそうな顔をしている。いつもの顔だ。何が面白いのかは分からない。
 「座りな。」

 手前の椅子に掛けると、手伝いの女に白い布を首に巻かれた。この女はまだたしか半年もこの店に居ないはずだ。店の中には他にもう一人客が居る。姐さんを筆頭に、三人で回している小さな床屋だ。姐さんは四歳ほど年上で、昔は近所だった。随分小さい頃から世話になっている。先代は山羊みたいな髭を生やした爺だった。

 「今日は一日中晴れだよ。」
 おもむろに鋏を動かし始めた姐さんが言う。
 「空で分かる。」
 「雲か何か?」
 「朝焼けの色だよ。」
 「朝焼けは雨じゃないのか、姐さん。」
 「色が違うよ。橙色が強くない。今日は晴れだ。」
 「別に雨でも行くさ。」

 細かく切られた白髪が茶色の床に散っていく。向かいの客が散髪を終わらせる。エプロンを巻いた男がてきぱきと掃除を始めた。確か姐さんの次男坊のはずだ。
 「何か土産とかは買ったのかい?」
 「特に用意しない。そういうことに決めてる。あまり今日が特別な日だとは思いたくない。今までだってそう言ってきただろう。」
 「向こうも同じだって?」
 「互いで決めたことだ。」

 姐さんは基本的に黙々と髪を切るのが好きなはずだが、時折、唐突に取り留めのないことを聞いてくることがあった(客商売だから一応何か話さねば、程度に割り切っているのかもしれないが)。ただ、今日の話は、少しだけ普段と違っていた。

 「欠かさないって、偉いことだよ。」
 「何の話?」
 「今日のこと。一度も休んだりしていないだろう?」
 「当然だ。」
 「でもね、こんなに長い年月ずっとそうしているってのは、本当は難しいことさ。気持ちだって続かないよ。耐えきれなくて音を上げたこともないしね。いつも淡々と今日に備えてる。これを若い気持ちって言うんじゃないかい?老けたって、あんただけはいつもどこか凛としてるよ。」
 「耐えられないと思ったことは何度もあったさ。俺はそんなに特別じゃない。続いてることがそんなに不思議かい?」
 「私には想像もつかない話だからね。」

 鋏を置き、手で頭に残った毛を払い落とす。首に巻いたものを外しながら、姐さんが話しかけた。
 「あんたはね、村の誇りだよ。」
 片手に巻き取った布で首の付け根の毛を掃った。
「楽しんできな。あと何回あるか分からんしねぇ。」
 毎年そんな言葉を聞いてる気がする。外へ出ると、陽は既に真上に昇っていた。



 いつも決めている順序がある。昼前に床屋へ寄ったら、次は"ペガサス"。ここから少し歩いた場所にある昔からの食堂だ。店主も幼なじみ。親父さんから店を継いで何十年も経つ。扉を開けた音を聞きつけて、男が厨房から姿を見せた。

 「なんだ、コーちゃんじゃないか!そうか、今日なんだな。よく来たな。えーっと、炒め物ならすぐ出せるけど?」
 「それでいい。」
 「はいよっ。」
禿げた頭をさっと引っこめる。テーブルに着くと、奥から今度は若い男が水を持ってきてくれた。こいつも昔から知っている。少し前までは腰の高さ位の子供だったのに、いつの間にやら背が並ぼうとしている。時が経つのは早い。
 「はい、コーさん。今日なんですね。・・・いいっすねぇ、コーさん。なんか羨ましいです。あっ、今日、晴れてよかったですね。」

 厨房から、油が撥ねる景気のいい音がジュッと響いた。
 「最近ね、うちのじいちゃんがそういうのに煩いんですよ。好き勝手にやらせてもらえないのかなぁ。」
 「エッちゃんを面倒臭く感じるなら、別にここ、出てけばいいじゃないか。」
 「冗談キツイっすよぉ。今はとても親んとこに戻れる状態じゃないんです。ねぇ、コーさん。けっこう真剣に悩んで・・・」
 「おうい、皿、用意しろぉ!」
 エッちゃんの怒鳴り声。慌てて返事して厨房に駆け込んでいった。



 食後、一度家に戻った。牛の様子を見、畑を回っている間に日も傾いて、時間が近づいてくる。今からゆっくりと歩いていけば、約束の時間に余裕を持って着けるはずだ。着替え、襟を正してから外へ出た。もうすぐ、夕焼けが見える。

 帰り道だろうか、子供たちがあぜ道から走り出て、先を競うように道の向こうへ消えていった。高らかな笑い声はまだ道に残響している。風が少し冷たくなった。鍬を背負って畑を後にする夫婦が見える。地面が橙色に染まっていく。こうしていくつもの夕暮れをこの眼に焼き付けてきた。昨日もこの夕暮れ。そして明日もこの夕暮れが訪れるのだろう。鵲の群れが飛んでいく。

 十字路を曲がろうとした時、後ろから突然声をかけられた。
 「おうい、じいさん。」
 振り返ると、少し離れた場所に枯れ草を積んだ馬車が止まっている。その傍に男が居た。村で見たことのある顔のような気がする。
 「今日なんだろう?どうだい、途中まで乗ってくかい。」
 「歩くより遅くなるなら断るが。」
 「ははっ。いいから乗れよ、じいさん。」



 ゆっくりと馬車に揺られながら、目はおもむろに空を見ていた。太陽と夜が混じり合う時間。星が少しづつ浮かび始めている。美しい。

 何となしに思い出したことがある。

 今日の昼、"ペガサス"で食べていた時のエッちゃんの話だ。エプロンを外しながら、エッちゃんは向かいに座った。

 「なぁ、向こうの様子はどうなんだ?」
 「別に変わらないと思うが。」
 「手紙だとかは来てないんだっけか?」
 手紙は送らない。向こうも送ってこない。ただ、それで不自由したり歯がゆく思ったことは無い。今日があるのだからそれで構わない。きっと向こうもそのはずだ。言葉に出さなくても、それは分かっている。

 若気の至り、ではあった。これが最高の形ではなかったはずだ。ところが不思議と、今までに寂しさを覚えたことは一度も無かった。まるで常に一緒に居るように感じることすらある。何故なのだろうか。
 永い年月が刻み込まれた右手を、左手が触れる。姐さんの言う通りかもしれない。確かにこれは想像を絶するような話だ。星と彗星の関係に似るかもしれない。永遠にそれが一つとなることは無いだろう。けれど時々、擦れ違う。不可視の力で結びついている。気がつけば、空はすっかり星で埋まっていた。今日は晴れて良かった。本当に、良かった。



 馬車の男に礼を言って、別れた。もう間もなくだ。下り坂を降りると、目の前に荘厳な大河が広がっている。黒々とした水が勢いを持って川下へ飛んでいる。遥か遠くには向こう岸が微かに見える。辺りはすっかり暗くなっていた。

 時が来た。満天に輝く星空から、鳥の鳴き声が聞こえてくる。それが次第に大きくなり、慌ただしい羽音が響き始めた。どう、と風が吹く。無数の鵲が周りを飛び交い始めた。空が黒く染まるほどの群れである。渦巻くように周りを旋回していたが、そのうちのひとつがそこから唐突に飛び出した。河の向こうへ、弾丸のように飛んでいく。他の群れがそれに続いた。隙間を埋め尽くすほどの鵲が河の上を渡る。次第にそれは白い光を放ち、河を明るく染めた。星空が照明のように輝きを増し始め、水面にスパンコールを散らす。
 鵲の橋に足を掛ける。歩くたびに鵲は少しだけ下に沈む。何度も何度も経験した感覚だ。いつだって飽きない。この星空も飽きない。死ぬまで飽きないだろう。河の周りにも鵲が飛び交う。正面を見た。何も重大なことじゃない。あたりまえのようにそこに居るだけだ。若き日の過ちで互いが引き裂かれた時から、不思議と一度も揺らいでいない。まるで昨日逢ったようにさえ振舞える。巡り会える当然と、また巡り会えた奇蹟。貴方の前で、右手を掲げる。胸元へ折る。笑顔になった。どうして歳を取ると、人は笑顔がきれいになるのだろうか。七月七日、約束の日――。

 歳を経てもなお輝きを失わぬ白鳥へ、老鷲はまず軽く会釈した。












あとがき
 こういう感じの作風は初めて、かもしれないですね。二度読むとあちこち違って見えてくる・・・かも・・・。「鵲」は「カササギ」のことで、七夕伝説では天の川に二人を繋ぐための橋を架けた鳥として知られています。