ホリデイ 2




 12月になっていた。部屋の中はあの時と何一つ変わっていない。
 この季節、さすがに全裸では寒いので、青年は先日、手ごろなところにあったサンタクロースの衣装を羽織ってみた。が、ひとり部屋の中で日がな一日この姿のまま、何もせずに過ごしているなど、罰ゲーム以外の何物でもないと気が付く。かといって脱ぎ捨てるにはあまりにも寒い季節で、しょうがなく青年は今日も、サンタの姿で畳に寝転がりながら、ただじっと次の日が訪れるのを待ち続けていた。
「僕はなんてだめな奴なんだろう」
 谷を沈めたあの豪雨の日に、確かに彼女は降って来た。けれども自分に出来たことは、彼女をコップに注いで一度だけ歌声を取り戻させたことだけ。あれから数ヶ月。とうとう彼女を取り戻すのに万策尽きた青年は、これまで以上に何もしない怠惰な日々を送り続けていた。季節はとっくに冬になっていて、相変わらず何に対しても力が入らない。しかもどうやら、今日は“クリスマス・イブ”らしかった。
 テレビからは歌番組。
 青年はガチャリとスイッチをひねると、立ち上がって窓のそばまで歩いていった。夜空はどんよりと曇っていて星ひとつ見えない。あの日から、雨は一度も降っていなかった。湖の水は、枯れたとまではいかないものの減ってしまっているようで、船着場の土台が水面から出てしまっているのをいくつか見つけている。吐く息が白い。
 青年は(サンタの)赤い帽子を被りなおすと、窓を閉めて、電燈を消して蒲団に潜り込んだ。また1日、何もせずに終わった。

 彼女の夢を見た。雪に埋まった森の奥の喫茶店で、彼女が暖炉の前でコーヒーを待っている――。

 青年が特に感傷も無く目を覚ますと、既に外は明るくなっていた。
目をこすって(サンタの)衣装を身に寄せなおすと、ふと窓の外を見た。普段よりも明るい。
 不思議に思った青年は蒲団から這い上がり、ガラガラと窓を開けると、そこには昨日とはまるで違った風景が広がっていた。

 雪だ。
 庭はもちろん、遠くの山、湖の向こうの建物にまで真っ白な雪が積もっている。湖面も凍りつきそうなぐらい冷たそうだ。どうりで普段よりも寒いわけだ。青年はサンタの衣装の上にもうひとつ毛布をはおり、そのままつっかけで外に出てみた。

 ざく、ざく。
 子供の頃には初雪の度にはしゃいで雪だるまも作ったものだけれど、今はもうそれほどの感慨は沸かない。
 ふう、と溜め息。白い息がもうもうと吐き出されて消えた。一瞬の静寂。寒さ。その時、ふと、青年の心の中に何かひっかかりが生じた。
 何だろうか? 青年は突然、どうしても自分が、まるで何かを忘れているかのような感覚に陥ったのだ。「何かを忘れている」? あまりに唐突だったが、その想いは急速にふくらみ、ぶくぶくと粟立って焦りを生む。何だよ、こんな雪の日の朝に俺は何を忘れているんだ?
 真っ白になった庭の真ん中で、青年は首を捻ってみた。太陽が真上に近づこうとしている。先程はだいぶ寝過ごしていたようだ。何を忘れているのか。テレビ番組を見逃したか? ガスの元栓は硬いままか? 新聞を取り損なっているか? (そういえば、取り損なっている) 風呂のお湯を昨晩抜くのを忘れたか? ……いや、違う。もっと大事な、大事な何か……。

『――あの日から雨は、一度も降っていなかった』!

 がばっ。
 青年は大急ぎで庭に積もった雪をがむしゃらに掻き集め、ショベルを持ち出して高々と中央に積み上げはじめた。気持ちが焦る中、心では彼女の面影を思い出していた。彼女のことなら、青年は手に取るように目の前に描くことが出来る――。この秋の水不足で、この土地の空は乾き切っていた。干上がりかけた湖がもたらした「初雪」。この庭にもどっさりと積もっている。そうだ、彼女もそこに居るのではないか?
 ざっと3時間といったところか――。次に気が付くと青年は、庭の真ん中に、彼女そっくりの――まるで本物と見まごうばかりの――雪像を作り上げていた。肩で息をしながら、青年は雪像の顔を見上げた。端正な表情。何一つ狂い無き美しいその顔。頬が熱くなる。自分で作り出した彼女の表情に赤面するなんて、いよいよ俺もおかしくなったのか。いや、そもそもこれは俺が作ったものなのか?

 ……彼女がすこし悲しげな表情を浮かべた。
 青年は息を飲んだ。

 彼女は美しいその表情をそのままに、こちらをじっと見つめている。まつげの先で水玉が揺れている。華奢で儚げなその身体と、白く美しいドレス姿が、朝霧のように静かに目の前で佇んでいた。

 青年がゆっくりと一歩を踏み出す。彼女がそっと腕を差し出した。青年はわなわなと震えながら、破裂しそうなほどに興奮しながら、導かれるままに彼女のその姿をぎゅっと抱きしめた。

 そして次の瞬間、握り締めた雪像は青年の腕力のままにばらばらと崩れ落ちた。あっ、と思ったときにはもう遅く、雪像は再びただの雪の塊に戻ってしまっていた。原型をとどめない彼女を見下ろしながら、青年は慌ててもう一度雪像を再現しようとする。しかし既に太陽は真上に到達しつつあって、気温は上昇していた。青年が作る傍らから雪はじわじわと溶け出していく。奮闘すること1時間。陽が真上を過ぎる頃には、雪像はもう手の施しようが無いほどジャブジャブに溶けてしまっていた。

 青年はうなだれて庭先にしゃがみ込んだ。頭を抱えた。青年はがたがたと震えながら、しばらくそのまま庭の真ん中で動かなかった。

 気が付けば夕方になっていた。雪はもうほとんどが溶けてしまっていて、庭の土と混ざり合ってぐちゃぐちゃになっている。青年は再び蒲団に潜り込んでいた。眠ろうとした。しかし目を閉じる度に、彼女の美しい、端正な表情が鮮明に浮かび上がって離れなかった。泣きそうだ。青年は思いを吐き出すように、小さな声で何度も何度もつぶやいていた。好きです。好きです。すきです、すきです……。
 青年は、たった一度だけ抱きしめた、彼女の冷たさを思い返しながら眠りについた……。