ぐりうむ達のクリスマス




『“サンタハラボジ”はうちにも来るの?』
 まだ幼い日に、膝の間から見上げたあのオンマの顔を、ミンホは今でも忘れられない。
 12月24日。ミンホにとって11回目のクリスマス・イブは、決して楽しいものではなかった。オンマは長らく患っていた持病が悪化し、この夏からずっと市のクリニックに入院したままだった。それからミンホは、アッパとふたりでこのマンションに暮らしている。アッパはミンホをよく気遣ってくれていたが、仕事が忙しく、何かと時間がすれ違うことが多かった。アッパはソウル市の消防隊員で、今日は夜勤で夕方から家を開けている。年末のパトロールから戻れるのは翌朝だった。ミンホはクリスマス・イブも、この家で一人で過ごさなければならないのだ。
 ソウル市内南側にある古いマンション群の一角。誰も居ない玄関を前に溜息をつきながら、ミンホは振り返ってそっと扉の鍵をかけた。がちゃり。居間のテーブルには、アッパが作り置きしてくれた夕飯がラップをかけて置かれている。冷凍庫にあるフライドチキンをレンジで温めることも書かれていた。
 クリスマスのテレビ番組を見ながら、ミンホは食事を済ませた。

 部屋に戻ったら宿題が待っている。冬休みのドリルが配布されたばかりだ。ミンホは勉強が嫌いではなかったが、こんな日の夜には、さすがにいきなり取り掛かるような気持ちにはなれなかった。上の家から笑い声が聞こえてくる。学校の友達は今頃、家族と暖かな団欒を囲んでいるのだろうか。
 羨ましい? ミンホには分からなかった。そういう感情が、この半年で欠落してしまいつつあったのだ。
 机に座ってみた。やっぱり何もする気が起きない。さえないな。
 ……そういう時、ミンホは決まって“ぐりうむ達”を呼び出す。
 ミンホは早速リュックから教科書を何冊か取り出すと、丁寧に机の上に並べ、最初の教科書のもくじを開き、空きスペースに書き加えられた“ぐりうむ達”を眺めた。これが、ぼくが出会った最初の“ぐりうむ”。ページをめくると「第一章」の扉があり、そこにも次の“ぐりうむ”が居る。さらにめくって、14ページ。3回目に会った“ぐりうむ”だ。そうしてミンホは次々とページをめくり、新しい“ぐりうむ”達と再会してゆく。“ぐりうむ”はこちらを睨んでいたり、そっぽを向いていたり、何もせずにどこかを見つめていたりする。行動らしい行動はしていない。ただ教科書の隅に、そっとそこに居るだけなのだ。
 途中からはカラーになった。アッパが買ってくれた色鉛筆がここで登場したのだ。ミンホはこの“ぐりうむ”たちの多くを学校で描き上げた。そして家に戻って、宿題を済ませる前や、後や、その途中……に色を塗るのだ。短縮授業だった今日の学校で描き加えられたばかりの、まだ出会ってすぐの“ぐりうむ”のページを開く。缶ケースから色鉛筆を一本取り出した。さぁ、かかろう。

 20分ほどして、ミンホの作業は無事に終わった。ワレながらいい感じに塗れたな。そこに“現れたばかり”の“ぐりうむ”を眺める。じっと眼を凝らして見ていると、彼らはまるで今にもぬらぬらと動き出しそうだ。
 唐突に次の“ぐりうむ”を思いついた。ページをめくって、次の空白に“ぐりうむ”を描き始める。ぐいぐいぐい。また上の家から笑い声。チリチリ、とライトスタンドが小さく音をたてた。ミンホは息を吐いた。

 その時ふと、ミンホは特に何の理由もなしに、部屋の窓の外へと顔を向けた。カーテンを閉め忘れていた。あっ、と思った。窓からは外が見えなかった。部屋の中の光がガラス反射して写し出されていたのだ。部屋の電球をミンホは点け忘れていて、勉強机のライトスタンドだけが煌々と窓に写り、ミンホの顔をぼうっと照らしていた。
 そこに写っているミンホは――、自分でも何と言えばいいのか分からない、そんな表情をしていた。嬉しそうではなくて、でも悲しそうでもなくて、怒りも悔しさも感じられないのに、どうしてか胸がぎゅっとなるような、そんな表情――。まるで自分の顔とは思えずに、ミンホは思わずどきっとした。なぜか泣き出しそうになった。自分はこれまでも“ぐりうむ”を描いているときに、こんな表情をしていたのだろうか。

 ミンホは突然、両親のことを思い出した。
 秋の日の休日。アッパはふと、スーパーマーケットの駐車場の向こうがわに、沈みかけた夕日の先に、何かを見つけたように立ち止まってぼうっと佇んだ。ミンホは不思議そうにアッパを見上げていた。時間にしたら、5秒くらいだったかもしれない――アッパは再びミンホの方を見て、何も言わずに微笑み、ミンホの頭をゆっくりと撫でてくれた。その日のアッパは普段以上に優しかった。どうしたんだろう、とすら思った。アッパはそのことを、何も語ってくれなかった。
 つい6日前のクリニック。短い面会時間の別れ際、ミンホはふと、オンマがその時、僕の方を見ながら“僕じゃないもの”を見つめているのでは、と気が付いた。瞳はまっすぐに僕の顔を向いているのに、その焦点は僕に合っていないんだ。僕の中の中のほうや、僕の先のその先のほうを見つめているような――。そんな表情だった。『オンマ、泣かないで』。僕は思わず声をかけてしまった。涙なんて出ていなかったけれど、何となくそう思った。オンマは慌てて笑って、今度は“僕を”見ながら『またね』って言った。自分から閉めた扉の向こうでも、オンマはまた病室の壁じゃない“どこかを”見つめ始めたような気がした。気がしただけだ。実際にそれを見てはいないけれど。でも、そんな気がしたんだ。

 今なら分かる気がする。ふたりともきっと、あの視線の先に“ぐりうむ”達を見ていたんだ。
 おとなになったら“ぐりうむ”達のことは忘れちゃうのかな? って、この間、ふとそんなことを考えた。自分の中だけに居て、ただゆらゆらとそこに居て、何もせずにこちらを睨んでいたり、後ろを向いていたり。気が付けばそこに居る“ぐりうむ”達を、僕はいつか手放さなきゃいけないような気がしていた。このたった半年間ですら、オンマも、アッパも、少しづつ僕から遠ざかっていて。ああ神様、だけど僕は、生きていかなくちゃいけなくて。その時はね、とても“ぐりうむ”達まで、一緒に連れて行けるように僕には思えなかったんだ。
 でも、そうじゃないのかもしれないね。オンマもアッパも、ずっとずっと僕の歳から信じられないぐらい遠くまで歩いてきている。でも、それでも“ぐりうむ”達は居るんだ。居なくならないんだ。見つめようとさえしていれば、いつだって夕日の向こうがわや、ぼくやだれかの向こうがわに、居てくれているんだ。どんな時だって、ひとのこころのかたまりみたいに、ゆらゆらとこちらを見つめてくれているなら、きっと僕は、もう少しだけ遠くに行っても、きっと寂しくはないよね?

 窓の外ではミンホの顔がゆらゆらと揺れている。自分の顔を、ミンホはまじまじと見つめた。そこには、“ぐりうむ”を見たあとの、その表情がまだ読み取れた。
 ミンホは不思議とにっこりして、机に身体を戻した。そして、また時間をかけて新しい“ぐりうむ”達を描き上げた。1年間使った教科書は、もうほとんどが埋まっている。歯を食いしばりながら、必死にこっちを睨みつけてくる“ぐりうむ”。そのページを閉じたミンホは、さっきより少しだけ満たされたような気持ちになっていた。

 クリスマス・イブ。たったひとりだけの部屋の中で、ミンホは冬休みの宿題に取り掛かりはじめた。